はじまりはいつか

年度特定

合唱祭はいつはじまったのか?
 この疑問に直接答えてくれるような資料は、残念ながら見つかっていない。しかし、合唱祭が始まった年を推定することができる資料はないこともない。


 一つ目は、「改革の炎はきえず」の次のような一節である。

改革の炎はきえず p199
復活した合唱コンクールより
(略)七一年には合唱コンクールの改革が行われた。(略)一〇年間続いてきた合唱コンクールの形式は、各クラスによる課題曲と自由曲を、本校音楽の先生と、外部から招いた音楽の先生との二人で審査するものだった。

 もう一つは生徒会誌「柏葉」から。

柏葉第15号(1974年度・昭和49年度) p90
合唱祭特集の合唱祭雑感より
(略)しかもマンネリ化を防ぐという意味からか、合唱祭十五年の歴史上初めて体育館から立派な柏市民文化会館ホールへ場所を移す事になった。

「改革の炎はきえず」の記述について

 まず、前者「改革の炎はきえず」の記述について考える。「改革の炎はきえず」によると、1971年度に合唱祭(当時は合唱コンクールと呼んだ)の改革が行われた結果、課題曲廃止などが決まったそうだ。そのような改革が行われる以前の合唱祭の形式を指して「一〇年間続いてきた合唱コンクールの形式」と書いているのがこの文章である。
 さて、文意を自然に取るならば、ここでいう「一〇年間」というのは当然「1961~1970年度の10年間」の意味になるだろう。しかし、改革の時代に詳しく書いたが、実はこの文章が書かれた年の前の年である1970年度というのは、おそらく史上唯一の、合唱祭が行われていない年だ。これを踏まえて「一〇年間続いてきた合唱コンクールの形式」という記述を考えるならば、「一〇年間」という文言が指示する範囲は合唱祭の行われていない1970年を除いた「1960~1969年度の10年間」だと考えた方が納得がいくと思われる。もちろん、これはテキストを読み解く際における納得の度合いの問題であり、「1961~1970年度の10年間」が否定できるものではないことは強調されるべきだろう。
 また、「10年間続いてきたのはあくまで『合唱コンクールの形式』であって『合唱コンクール』そのものはそれ以前からあったかもしれない」という読みも考えられるだろう。しかし、1971年度の改革で大幅に変更されるより以前に合唱コンクールの形式に変更があったとしたら、そのことが「改革の炎はきえず」で触れられないのは明らかに不自然だ。そのため、「一〇年間続いてきた合唱コンクールの形式」という記述は「合唱コンクール自体もその形式も10年間続いてきた」という状況を想定させるのに十分なものだろう。
 いずれにせよ、前者の記述からは1960年度(昭和35年度)が合唱祭(合唱コンクール)の初年度であると考えるのが妥当であろう。


「柏葉」の記述について

 続いて、後者「柏葉」の記述について考える。これが書かれたのは1974年度のことだ。1974年度の時点が「合唱祭十五年の歴史上初めて」ということなので、合唱祭が始まったのは1974年度も含めて15年前と取るのが自然だろう。だから、「十五年の歴史」というのは「1960~1974年度」を意味しているものと思われる。
 従って、後者の記述からも合唱祭の始まった年は1960年度(昭和35年度)と捉えるのが自然そうだ。


年度特定のまとめ

 このように、「改革の炎はきえず」と「柏葉」という、書いた人も書かれた年も異なる資料から推定した年がぴたりと一致したため、合唱祭は1960年度(昭和35年度)から始まったと考えられる。もちろん、上に見てきた10年・15年という数字はきっちり10年・15年である保証はなくて、11年間だけど「大体10年間」ということで10年間と書いているかもしれないし、これを書いた人が数え間違えている可能性だってあるため、なんら確証を得るには至っていないというのが実状だ。

優勝楯

 はじまった年を推定できるものを番外的にもう一つ紹介しよう。下はSRに今(管理人が確認したのは2015年の3月が最後)でもかざってある合唱コンクールの楯だ。中央下のパネルには「優勝 東葛飾高校 校内合唱コンクール」と刻まれているのが分かるだろう。この楯にはこれを入れていたとおぼしき木箱も残っており、その内側に昭和36年度~昭和57年度(1961年度~1982年度)の優勝クラスが書かれている(昭和45年度は上述の通り合唱祭が行われていないため、書かれていない)。見て分かる通り、一番古いのは昭和36年度の優勝クラスであり、上で推定した1960年度の記録はない。初年度は楯がなかったということかもしれないし、上の推定が間違えていて実は1961年度が最初なのかもしれないが、やはり決めてはないと言わざるを得ない。

盾.jpg
箱内部.jpg






始まった当時の様子

 合唱祭が始まった年は大体分かったが、当初の合唱祭はどんな形で行われていたのだろうか。残念ながら、それを示す資料は少ない。まず、文章として唯一見つかったのは先ほども取り上げた「改革の炎はきえず」の以下の記述のみである。

最古の記述

改革の炎はきえず p99・100
生徒会行事の改革
早まった合唱コンクール廃止
 教育改革の意欲は、当然また、各種の生徒会行事へも向けられていった。その改革の努力の中で、生徒会は次の原則を確立した。
1 討論の時間を生徒会として保障する。
(略)
2 各種表彰状などは生徒会長名で出す。
 合唱コンクール・体育祭などの表彰状は、従来は校長名で出されていたが、名実ともに生徒会主体にするという意味で、生徒会長名で出すことにする。
(略)
これまでの合唱コンクールは、次のような形で行われていた。
・全クラスが参加する。
・発表する曲目は課題曲と自由曲の二本とする。
・審査は、校外音楽教師二名と本校音楽教師で行う。
 右のことことからもわかるように、これは主として学校の教育的立場――生徒の情操を豊かにし、芸術的感受性を養う方針から実施されていたもので、生徒会がかかわっているという色彩は稀薄であった。にもかかわらずこの合唱コンクールには、多くの生徒がクラスを母体として積極的に参加した。朝夕の練習を通じて互いの心がとけ合い、そこに素晴らしい集団教育の一つのすがたがあった。



最古の写真 

 次に、最も古い写真としては以下のものがある。これは例の、「合唱祭十五年の歴史上初めて体育館から立派な柏市民文化会館ホールへ場所を移す事になった」年の写真である。

最古の写真1.jpg
最古の写真2.JPG
▲柏葉第15号(1974年度・昭和49年度) 巻頭のグラビア

さいごに

 合唱祭が、管理人の言うとおり1960年度に始まったとしたら、その当時18才だった高校3年生は、2017年現在75才である。合唱祭は2017年度で57回目(1970年度の分を抜いている)を数えることになる。これは、現役の東葛生にとってかなり唖然とするスケールだと思う。いまいちピンと来ない人のために付け加えるなら、1960年はアフリカ諸国が西洋の植民地支配から脱して独立した「アフリカの年」であり、日本でカラーテレビの放送が始まった年であり、安保騒動があった年である。
 このようなスケールの中で合唱祭このことを考える時、その歴史の中で生まれては消えていったドラマが山のようにあったであろうことや、合唱祭をよくするために努めた数々の若い力があったであろうことが思い起こされるだろう。
 当時の合唱祭と今の合唱祭は、かなり違うものだったはずだ。詳しいことは分かっていないが、場所、曲、審査の仕組みなどなど、同じものを見つけるのが難しいくらいかもしれない。でも、確実に言えるのは今も昔もそこにいるのは高校生であり、現役の東葛生は今まさに歴史を作っている途中だということだろう。

  • 最終更新:2017-03-10 22:12:08

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