コンクールから祭へ

いつから「祭」となったのか

 別の記事で少し触れたが、「合唱祭」はかつて「合唱コンクール」という名前であった。では、いつから「合唱祭」と呼ばれるようになったのか。それが実は定かではない。あくまで管理人個人としては、下に列挙する通り、同じ1972年度に書かれた文章でも「合唱祭」と「合唱コンクール」の呼称が混在していることから、この頃「合唱祭」と呼ばれるようになっていったのではないかと考えている。

以下、柏葉第13号(1972年度・昭和47年度)より

p56
一年A組
 そして文化祭二部を迎える日が近くなり、あと一週間半ほどまでせまったころようやく準備をしはじめ、そのテーマなんと「自由の中で(制服制度廃止について考える。)」こんな大それたテーマでできるかと心配し、何とか、インタビューやら統計やら取って当日に臨む。客の入りはまずまずで、内容の方も成功といえたようだ。これが合唱コンクール以来、一-Aとして初の成功となったのではないだろうか。

p57
昭和47年度一年B組の全貌
 球技祭で、サッカー一位の他、残敗をし
 文化祭第二部で、一階から三階までの長ーーいポスターを作って喜んだクラスであり、また
 合唱コンクールの練習のとき、顔を出さなかった人間が多いのに、十二位、一学年ではトップという人間の集団であり、(略)

p60
一年E組
 僕がこのクラスにきた当時、全然まとまりねーなと思った。案の定、合唱コンクールではみごと二位(うしろから)。でも今は変わった。スポーツ祭の成績は素晴らしかったし、文化祭Ⅱ部も大成功だった。

p62
一年F組
 合唱コンクールでは、われわれは一Fは血のにじむような猛練習を重ねたのでありますが、結果は見事全校最下位でした。なにしろ「カエルの歌」で、他クラスに対抗しようとしたのですから……。

p65
一年H組
(略)また壱英智の男女、学芸、運動共にすぐれし者多し、合唱祭にては一年でははただ一暮巣あやしげな賞を受け、夏の巣邦津祭にては、土にまみれ、汗にまみれめでなく〔ママ《めでたく》〕優勝しけり。

p67
二年C組
 クラスは近づく文化祭のためにざわついている。責任者等の顔は緊張のためか多少引きつっている。ハンサムな顔がだいなしである。合唱コンクール第三位(一・二年最高)過去の栄光が重圧となっているためか。

p76~77
三年E組
(略)そんなクラスでありながら、一人一人が火の如く燃える時がある。何故かわからぬ。とたんに燃え出すのだ。その例――合唱コンクールの時がそうだった。

p79
三年H組
24 古谷 守 合唱コンクール審査委員


 しかし、読んで分かる通り、「合唱祭」と記してあるクラスはたった1つ、1Hだけであり、しかもそのクラスは古語で書くというネタでクラス紹介を書いているため、「合唱コンクール」と「合唱祭」が混在していたことの証拠としてはかなり説得力に欠ける。ただ、上に挙げた1972年度の記録よりも前の記録は全て「合唱コンクール」の呼称を用い、それよりも後の記録は全て「合唱祭」の呼称を用いていることから、少なくとも「合唱祭」と呼ばれ始めたのがこの頃であるというのは確かなことである。なお、「1972年度」ではなく「この頃」という表現を用いるのは、1972年度のちょうど前後の年である1971年度と1973年度の柏葉が管理人の調査では見つからなかったためである。すなわち、より正確な表現をするなら「合唱祭」と呼ばれるようになったのは1971年度~1973年度の間である。

どうして「祭」になったのか

 さて、あとの問題は「その変化が自然に起こったものなのか人為的に起こったものなのか」ということである。そのことを考えるための鍵は、1974年度の柏葉の合唱祭特集でその年の審査委員長が書いた以下の文章にあると思う。

柏葉第15号(1974年度・昭和49年度) p90・91
特集 合唱祭
合唱祭雑感
合唱祭審査委員長
 10月18日、めでたく合唱祭が終了した。終了というと、まるで二~三日間行われていたようだが、一日だけである。しかし僕は今年の合唱祭は9月11日に始まり10月18日に終了したと考える。9月11日の全校委員会で、今年の合唱祭をどうするか討議し始めた。その時点で、合唱祭を二学期にやるのは日程的に苦しく、修学旅行を控えて二年生から反対が大きかった。だが僕は三年の全校委員会の一人として、合唱祭を行うことに強く賛成した。結局10月18日にやる事に決定したのである。しかもマンネリ化を防ぐという意味からか、合唱祭十五年の歴史上初めて体育館から立派な柏文化会館ホールへ場所を移す事になった。その上、審査制が二年ぶり二度目の審査委員制となったのである。
 なぜこんな事を言うのか、ここに一つの問題があるからである。問題とは"合唱祭"なのか、"合唱コンクール"なのか、という事である。何らかの形で審査をして、順位をつけ表彰する。優勝クラスに授与される盾には『合唱コンクール』と書かれてある。これらの点を考えるとコンクールかもしれない。だが、僕にはコンクールという名には抵抗がある。変に順位を意識して難しい曲を選び、"上手に歌おう。プロの合唱に似せよう"というような意識でこの行事を行うように思えるからである。
 僕は題にも、文中にも"合唱祭"という名称を用いてきた。本来この合唱の行事は、一連の東葛祭の中の一つとして考えるべきだろう。目的としては、クラス内、クラス間そして学年を超えた親睦を深める事があると思う。僕は一年のころ、合唱祭に打ち込む先輩達、特に三年生を見て"どうして先輩はあんなにまとまっているのだろう""どうやったら、あれだけ協力し合えるだろう"と思った。事実、昼休み、放課後はもちろん、朝早くから一生懸命に練習していた三年生の合唱はすばらしいものだった。この点で僕は結果よりそれまでの過程が重視されるべきだと思う。これが"合唱祭"であるべき理由である。
 今年の感想として、一年生が非常に良くやったと感じる。もちろん二、三年生もよくまとまっていた。文化会館で、審査員制で行われた今年の合唱祭、成功だったと思う。しかし一つ気になった点がある。場所からか、審査員制からか分からないが、どこか変に上品すぎたと思う。コンクール的に思える。もっと高校生らしい、荒削りな、ラフな合唱でもいいのではないか。来年はこの意味で合唱祭であってほしい。

上のように審査委員長が「僕にはコンクールという名には抵抗がある」と書いていることから、この合唱の行事の呼び名をめぐる状況が

  • スポーツ祭・文化祭の影響で自然に「合唱祭」と呼ばれるようになってきたけれどもまだ「合唱コンクール」と呼ぶ人もいてどちらが適切かでちょっとした議論になっていた

というような状況にあったのではないだろうか。つまり、審査委員長の「僕にはコンクールという名には抵抗がある」という積極的な表明は、そのような議論が一部で行われていたという状況において起きるのが自然だと思われる。しかし、1972年度までは「合唱コンクール」が優勢であったのに、その2年後の1974年度には記録に残っている全ての記述が「合唱祭」になっているという事態には、人為的なはたらきかけが感じ取れないこともない。だから

  • この年かこの前の年(1973年度か1974年度)に、誰かが「この行事は『合唱コンクール』ではなく『合唱祭』と呼びましょう」という指示をした

というような状況にあって、その指示に賛同するもしくはその指示をした張本人である審査委員長が柏葉で上のような文章を書いたのかもしれない。

 どれが正しいのか本当のところは分からないので、知っている人がいたら是非ともお問い合わせから教えていただきたい。又は、直接このページを編集していただきたい。よろしくお願いします。

  • 最終更新:2017-03-11 00:53:55

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