改革の時代

「改革」とは

 「改革の炎はきえず」という本がる。この本は、1968年度~1972年度の間東葛で行われた教育改革の成り行きを記したものだ。書き手は当時の教員団である。現在の東葛にもつながる制服廃止や自由研究・文化祭2部制・スポーツ祭クラス対抗制などについて、当時どのような議論がなされたのか、生徒や教員はこの問題にどう立ち向かったのかが書かれている。このページで取り扱う「改革」とは、それらの諸改革と連動してその時期に起こった、合唱祭の改革ことである。
 なお、「改革」と聞くとなにか過激な印象を持つかもしれないが、「改革の炎はきえず」によると東葛の改革は徹底的に話し合いを通して行われていったものであり、暴力的な動きはなかったそうだということだけ断っておきたい。

改革の動向


中止と復活

 合唱祭は1960年度頃にはじまり、現在に至るまで60回近く合唱祭は行われている。合唱祭がはじまった当時の様子は、はじまりはいつかに詳しいが、体育館で行われていたり、校外の音楽教師と東葛の音楽教師による審査がなされるなど、今とはかなり異なる様相であったらしいことは強調しておきたい。
 その60回近い歴史の中で、一度だけ1970年度は合唱祭(当時は合唱コンクール)が行われなかった年である。全校委員会で、今で言う「実施原案」が否決されてしまったのだそうだ。当時の全校委員会というと、今(2015年度)で言うところの代表委員会であり、すなわち全HRの代表が集まる会議である。「改革の炎はきえず」によると、次のような経緯で、全校委員会は合唱コンクール開催を否決した。

改革の炎はきえず p100
早まった合唱コンクールの廃止
(略)
 ところで、五月二五日に開かれた全校委員会は、これまで行われていた「合唱コンクール」の開催を否決してしまった。執行部は例年通り開催するつもりで合唱祭の原案を持って全校委員会にのぞんでいたのだが、これが否決されてしまったのである。
(略)
 右のことことからもわかるように、これは主として学校の教育的立場――生徒の情操を豊かにし、芸術的感受性を養う方針から実施されていたもので、生徒会がかかわっているという色彩は稀薄であった。にもかかわらずこの合唱コンクールには、多くの生徒がクラスを母体として積極的に参加した。朝夕の練習を通じて互いの心がとけ合い、そこに素晴らしい集団教育の一つのすがたがあった。
 これらのことを、提案にさいして生徒会長はくわしく説明しなかった。あえてその説明しないことによって、全校委員会での根本的な議論を期待したのである。ところが委員会は論議不足のまま中止の結論を出してしまった。

 そして翌年の1971年度、合唱祭はちゃんと開催されて復活することになる。この時、復活に際して制度が変わったのだ。同じく「改革の炎はきえず」によると

改革の炎はきえず p199
復活した合唱コンクール
(略)七〇年は討議不足で中止してしまっていたので、一年ぶりの復活となるわけだった。「復活?合唱コンクールではない、お祭り騒ぎだ」「課題曲なしで客観的審査ができるか!」「全員審査なんて人気投票にすぎない」「芸術的技術向上は望めまい」等々、職員会議はもめたが、「生徒会の正式決定はひとまず尊重する」ちう東葛生徒指導の原則の方向が辛うじて多数をしめたのだった。
 梅雨の晴れ間の六月の午後、体育館は熱気に満ちていた。懸念された進行はスムーズだった。生徒達は練習不足のクラスの時は騒々しく、練習を積んだクラスのときは息を呑んで聴き入った。多くのクラスは、早朝練習や日曜練習もやってきたのだった。全校投票(自分のクラスへは投票できない)の結果が、喚声の中で発表され、音楽のS先生が、生徒会の依頼により講評を述べた。「技術的水準も高く、発表も、審査も立派な出来でうれしい。本格的な混声四部合唱曲を選び、十分練習したクラスがみなに聞いてもらえることがわかったと思う。……」後になってわかったことだが、全校投票のうち、教員側の投票と生徒の投票を、音楽の先生が独自につけていた順位と比べると、一、二位については三者が全く一致し、三位については生徒の投票が音楽の先生と合致し、四位以下についても、生徒の方が音楽の先生の評価に近かった。投票の集計を待つ間の全体合唱(これはフォークが多い)は体育館を揺るがした。

となっている。変わったポイントは以下の2点だ

  69年度以前 71年度
選曲 自由曲+課題曲 自由曲のみ
審査 校外音楽教師2人+東葛の音楽教師 全校投票



改革のその後


 自由曲のみを歌う制度は今(2016年度)でも続いている。これに対して批判的な意見は(管理人は)聞いたことがないから、合唱祭がある限り変わらないだろう。
 一方、審査方法は1971年度の改革後も、幾度となく変更が行われている。

柏葉第15号(1974年度・昭和49年度) p90
合唱祭雑感
(略)その上、審査制が二年ぶり二度目の審査委員制となったのである。

 上は1974年度の記事である。この記事から当然読み取られるのは、1972年度と1974年度は審査委員制で審査を行ったということだ。つまり、この時期は審査制度が下のように二転三転したと考えられる。

1969以前(専門家)→1971(全校投票)→1972(審査委員制)→1973(審査委員制でない何か)→1974(審査委員制)

なぜこのような経過をたどったのかは不明だ。「改革の炎はきえず」では全校投票制は素晴らしかったかのような印象を受けるが、全校投票制は翌年から改められているため、やはり何かした問題があったのかもしれない。それでも74年度以降は審査委員制度で落ち着き、後は現在(2015年度)までずっと変わらずに来ているようだ(2016年度には47年ぶりに外部から専門家を招いているが)。


柏文


 なお、同じ記事に次のようなことも書いてある。

柏葉第15号(1974年度・昭和49年度) p90
合唱祭雑感
合唱祭十五年の歴史上初めて体育館から立派な柏市民文化会館ホールへ場所を移す事になった。

つまり「改革」の直後の、審査制度が審査員制度で落ち着いた年というのは、合唱祭を初めて「柏市民文化会館」で開催するというこれまた大きな「改革」が行われた年でもある。


「改革」のまとめ


 さて、1970年度~1974年度までの「改革」を見てきたが、これらの「改革」の後、長い間合唱祭の形式には大きな変化がない。この時期の「改革」はまさに画期的であったということだ。

 まとめると、以下のようになる。

年度 出来事
1969(S44) 課題曲あり・外部音楽教師2人+東葛の音楽教師による審査
1970(S45) 全校委員会により合唱祭中止
1971(S46) 復活・課題曲廃止・全校投票制
1972(S47) 審査委員制
1973(S48) 全校投票制
1974(S49) 審査委員制・初の柏文使用





「やる/やらない」

72年度3E


 改革の真っ最中の1972年度(昭和47年度)、当時の3年E組が合唱祭をボイコットしかけるという騒動が起こった。

柏葉第13号(1972年度・昭和47年度) p76~77
三年E組
 三E。恐らく、その雰囲気は他のクラスと何の変わりばえもしていないだろう。棚には一週間か十日に一度とりかえると思われる花があり、窓には少々赤茶けたカーテンが晩秋の長くなりかけた白指し〔ママ《日差し》〕を遮るために、昨日も今日も相変わらず、だらしなくかかっている。そして、クラスの中には、四十六名の男女が互いに机を寄せ合って学習し、語る姿があるだけである。その他に何があろう。変わったもの――何もない。だが、三Eにはおかしな連帯感がある。不断は、全くその姿を表に表さぬが、それは一度走り出すと、その停まるところを知らぬ。当の本人達も恐らく連帯感などというやっかいな代物は忘れ去っているに違いない。このクラスへ来て、そんな話をすれば、AやBの口から恐らく反論が出るだろう。そして、己の話を納得させる事はできまい。そんなクラスでありながら、一人一人が火の如く燃える時がある。何故かわからぬ。とたんに燃え出すのだ。その例――合唱コンクールの時がそうだった。
 一学期の後半だったか、学校の行事の一貫〔ママ《一環》〕として合唱コンクールが催された。全学年全クラス参加を目標とした催であったが、段々三Eだけは、その出場にむずかった。出場決定の採決の時点において賛成するものはわずか七、八名、残りはすべて反対票である。そして、その理由のほとんどが「やる意義を見い出せ〔ママ《見出せ》〕ない。従って、やる気が出ない。」という事だった。ところが、この採決が全校委員会で問題となった。そして、職員会議にも持ち出され、ここでも討論の対象となった。周りの態度が硬化するに従って、我々のクラスも硬化し、連日の討論もその決議を変える事はなかった。とうとうたまりかねた全校委員会が説得に乗り出した。ある全校委員会が説得するが一向に応じない。その敵視した口ぶりに反発し、意地でも曲げるものかという強固な態度になって行った。その間にあって、生徒会の幹部の答弁ははっきりしない。その態度に対する不満はますますつのるばかりである。その日も遅くまで話し合った。「出る」「出ない」相変わらずだったが、その空気は徐々にやわらいで行った。長い議論――その結果、終に採決が逆になった。その時、その時こそ、三Eの連帯感が動き始める時だった。各人の心の中には、長い議論の末の熱いものが流れ始めていた。その日のうちに選曲が開始されて指導者を中心に一日の練習に全てをかけた。音がとれない。声がかすれる。のどが疲れた。だが、時間は限られている。とにかく一日で仕上げなければならないのだ。その緊張した時に、やる気を失っていた時点への移行が開始された時に、三Eのおかしな連帯感は停まるところを知らなかった。
 これが三Eのおかしな連帯感を示す好例である。結果こそ悪かったが、凡そ三Eの一人一人は賞状以外の大きなものを手にしたはずである。それは、短期間であるにせよ。三Eのみんなで一つの事を成し遂げたという満足感に外ならない。それは又、率直に出場した者には量知れないほど大きなものであった。

上にあるとおり、今では考えられないが、全校委員会や職員が説得しなかったら合唱祭に参加しなかったであろうクラスが、かつて存在したのである。今(2015年度)でも「やる/やらない」アンケートは各クラスの合唱祭委員によって多くは口頭で行われているが、「やらない」なんて結果が出ることは考えられない。今の東葛生が合唱祭に意欲的ということか、それとも大した吟味もせずに空気を読んで「やる」と答えているのか。

不参加


 また、「やる/やらない」に関して言えば、少し後の1984年度には次のような記述がある。 

柏葉第25号(1984年度・昭和59年度) p69
にもかかわらずわっしょい 3Fサーガ
「合唱祭でない人いますか?」衣装の注文をとる女の子。(略)6月1日。フィニッシュに「わっしょい」と突き上げた拳に自身はあったが学年5位。不参加9名に審査員の同情はなかった。

驚くべき事に、「合唱祭でない人いますか?」という質問が出ている。そして、「不参加9名」という理解しがたい状況が生まれている。要するに、この頃(少なくとも72年度~84年度であろうか)はクラスがどうであれ自分は参加しないという選択肢が少なくとも一部のクラスでは認められていたということである。
 今でも、「やる/やらない」アンケートに「やらない」と答える人は各クラスに1人前後いるが、だからと言ってその人達が合唱祭の練習や合唱祭本番に参加しないなんてことはまず考えられない。もちろん、練習に参加しないうちに全然歌えない状態で本番迎えてしょうがなく口パクするという人はいるが、それは逆に言えば合唱祭には全員で参加するという意識がみんなに共有されていることによってはじめて生まれる状況である。

  • 最終更新:2017-03-11 00:41:00

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